2017年6月17日土曜日

台風被害を受けた清水町旭山の別荘地は今どうなっているんだべ?


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もう十数年前になるだろうか、十勝方面をドライブしていた時、偶然に日高山脈の麓にある清水町旭山の別荘地に入り込んだことがあった。

札幌方面から日勝峠を越えて国道275号線を進み、清水町市街の手前で道道55号へ右折した後、旭山から道道859号旭山線へまた右折し、剣山の麓にある剣山神社という所に寄ってみようと思ったのだが、神社へ行く途中にある右手のト字分岐の細い道がなんとなく気になったので、ボロ車でその怪しげな?林道に恐る恐る入ってみた。

すると何やら林の中に、何軒かの建物が建っているのが見える。こんななんも無いとこに人家があるのか?と最初は不思議に思ったのだが、建物の感じからすると、どうやら「別荘地」の様だ。



場所はここらへん↓。

   





で、その旭山の別荘地なのだが、雑木林の中の広い敷地にポツポツと別荘が建っていて、その別荘も手作り感を前面に押し出している物が多い。例えばこんな感じ。

掃除が楽そうな大きさだ
中で寝転んだままでも、大抵の物には手が届きそうな建坪だ。恐らく3坪くらいだろうか?



偶にはこんな普通の家と同じような物件もあるのだが

上のやつに比べりゃかなりデカい


しかし、この手の別荘よりも、やはり手作り感満載のミニ別荘の方がどうしても目に付く。中にはこんな建物もあった。

山深い森の中に忽然と現れる物置?
最初は物置かと思ったのだが、人里からエラく離れているこの山の中の場所に、わざわざ物置を設置する意義を見い出せなかったので、多分これも「別荘」なんだろう、という結論に落ち着いた。

それにしても、こういうタイプの別荘というのは「Simple is Best」を地で行く感じで、石器人が理想とする棲み家にかなり近くて羨ましい。




さて、車がすれ違うたびに譲り合いをしなけりゃならない程狭い、別荘地内の林の中の砂利道を走って行くと、こんな売地の看板も結構見かける。

売地の看板



山の方向に向かって川沿いの細い林道を更に進んで行くと、どうやら最終人家らしい場所に辿り着いた。

最終人家 人の気配は無い

人が住んでいる気配はないから、おそらく別荘だろう。ちなみにこの建物だが、後日ネットで不動産物件を検索したら売りに出されており(価格は失念した)、その後暫くしてから売約済みとなって、売り物件一覧から消えてしまった。


という具合に一通り別荘地内を巡ってみた結果、石器人はすぐにこの場所が気に入ってしまったのだ。

街からはかなり遠いし、冬の間はちゃんと除雪されるのだろうか?、冗談ではなく羆が玄関まで来るんじゃないべか?、などの心配な点はあったのだが、とにかく自然を満喫する暮らしがしたいのなら最高の場所である。誰に気兼ねすることなく、黒板五郎並みの暮らしが出来そうだ。



そんな訳で、家に帰ってから早速ネットで清水町旭山の売地物件を検索したのだが、まず土地価格の安さに驚いた。当時で2~300万も出せば、千坪以上の土地が買えたのである。中には100万で数百坪の区画もあったのだが、そこはどうやら電気を引くのに費用を自己負担する必要があるらしかった。

別荘地、と言っても単一業者が取り扱っている訳ではなく、様々な不動産業者や中には地主が直接売り出している物件もあったのだが、全てに共通して言えることは、上下水道が無いので、井戸の掘削は必須で、便所はボットンか合併浄化槽ということになるようだ。



石器人は、その時にはもう既に石狩管内の山の中に家を建ててしまっていたので、現実的にはこの土地を買う予定はなかったのだが、とにかくその場所は気になっていて、毎年ドライブがてら様子を見に行ったり、ネットで旭山の売地物件の価格調べなどをやっていた。ちなみに、定住者もある程度いるようで、冬に訪れた時には最終人家までの道路は除雪されているのを確認できた。





時は流れて、去年(2016年)北海道を襲った連続台風の話である。

8月の中旬から台風7号に始まって、その後続けざまに何度かの台風が北海道に上陸したのだが、最後にやってきた台風10号による大雨が、道内各所に甚大な被害をもたらした。

それは上記の清水町旭山地区も例外ではなく、日高山脈を源流とする久山川上流にあるこの別荘地でも、川の氾濫によって林内への土砂流出や、道路の寸断などの被害に見舞われたらしい。

「らしい」というのは、日勝峠の手前側が崩落してしまい、国道274号が通行止めとなったのをはじめとして、清水町内の旭山方面に向かう道路も被害を受けて、現地に入れなくなり、ニュースやネットの乏しい情報でしか現場の状況を知ることができなかったからである。





で、その翌年、つまり今年2017年の話だが、そろそろ現地の状況も落ち着いてきたのでは?と思い、自分の目で確認するべく、6月の或る日に清水町旭山の別荘地に行ってみることにした。

日勝峠は未だ通行止めが続いているので、岩見沢~富良野~狩勝峠経由のルートで行くことに。


富良野より芦別岳から連なる山なみを望む。

山がきれいだ
↑写真が切れている左手に芦別岳があるのだが、生憎雲に隠れて見えなかった。



狩勝峠を越え国道38号を南下して、御影から日高山脈側に進む道へ右折する。

御影から旭山方面への農道に右折



羽帯南10線を左折して旭山方面へ

右折


行くつもりだったのだが…

行けない…
ありゃ~、通行止めだ…。


仕方ないので、少し戻ってから旭山線に入り、山側を目指す。少し行くと芽室川に架かる旭山橋がある。ここも氾濫したらしいが、かなり復旧は進んでいる様だ。(地図地点A)

地図地点A 旭山橋
上流方面
下流方面
下流の被害の爪痕其の1
下流の被害の爪痕其の2


橋を過ぎて更に進む。左手道なりに行くと旭山の集落に出るのだが、台風被害の状況を見る為に、右手の分岐方向に寄り道してみよう。(地図地点B)

地図地点B 寄り道の為に右折


ちょっと行った先で、日高山脈側に左折。

山側に左折


次の十字路を友山方向に右折すると、林内には川の氾濫で流出した土砂が白く残っている。

上流側 白っぽいのが流出土砂
下流側 土砂がびっちり
この状況から推察すると、林の中は水浸しだったと思われる。



中野川に架かる「友山橋」にも行ってみた。ここも結構な氾濫具合だったようだ。(地図地点C)

地図地点C 友山橋
上流側
下流側其の1
下流側其の2
下流側別荘にも被害が…



付近にある別荘地も被害を受けている様だ。

深く抉れた別荘地
別荘の敷地内にも土砂が…
物置にも被害が




さて今度は、旭山の集落で道道55号から右手の剣山方向に分岐している道道859線をしばらく進み、途中にある右手の細い道へ右折する。(地図地点D)

地図地点D 道道859号から右折して林道を進む



道の途中にある被害を受けていない別荘。

こちらの別荘は無事だったようだ



この林道を横断する沢に設置された暗渠も被害を受けている。(地図地点E)

地図地点E  大したことがないように見えるが…
下流側は結構抉られている


林道の先にあるドン突きを左折して、山側に向かう。

行き止まりを左折する


左折後に山側に延びる林道。この先に例の「最終人家」がある。

路肩が傷んでいる


山側を目指して進んで行くと

流木が…
道の脇に流れてきたらしい木が片付けられている。


もう少し先に進むと(地図地点F)

地図地点F 盛土補修跡
道路を横断する沢の暗渠排水管がある場所だが、ここも氾濫したようで、車が通れる程度に簡易に盛土で補修した状態だ。

暗渠排水管のある沢の下流側はエラいことになってる…。

だいぶ削られてる…


暗渠排水管のある沢に流れてきたと思われる巨大な石。

流れてきた巨石其の1
流れてきた巨石其の2
車の大きさと比べてみて欲しい。こんなのがゴロゴロ転がってきたら人間は勿論のこと、家屋もタダじゃ済まないべな…。




最終人家を目指して、更に奥に進むと(地図地点G)

地図地点G 工事中だ…
通行止めかい
工事中で通行止めである。通行止め看板の少し先で、道が抉れているのがわかる。

ほほう、そうかい…。この先の道路は、未だ復旧の途中ということらしい。だけど、この先にある、あの最終人家には、台風の際に人は滞在していなかったのだろうか?

まあ、定住住宅ではなく別荘で、且つ無人状態だったとすれば、今頃補修工事をしても問題ないのかもしらんけど。





という訳で、最終人家まで行ってみる方法は無くなったので、名残惜しいけど帰路に就くことにしたのだった。あの様子ではまだ暫くかかりそうだから、秋口にでももう一度行ってみることにしよう。


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2017年5月4日木曜日

再び秘境に逆戻り? 崖山(きりぎしやま)


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昭和52年に初版が発行された北海道撮影社(懐かしい!「北の山脈(やまなみ)」を思い出すべさ…)発行の「北海道の山と谷」という登山ガイドの本が家にある。

石器人が所持しているのは昭和58年の改訂版なのだが、道央の山は無論のこと、道南、積丹、増毛、夕張・芦別山塊や、大雪、知床、日高山脈、それに天塩岳、利尻山などの道北の山まで網羅されていて、読んでいるだけでも非常に面白かった。

で、その本の中でも石器人が特に興味を惹かれたのが、芦別岳の北尾根続きにある崖山(きりぎしやま:標高1,060m)」という名前の山だった。

本に拠れば、「恐竜の背を思わせる特異な形状の岩稜(P.146より引用)」の山のようで、「数多くの未踏壁が残されている(P.146より引用)」らしい。石器人には岩登りの趣味は無いのだが、この「恐竜の背を思わせる~」というくだりが妄想を掻き立てられて気に入ってしまった。

当時は登山道は無く、本に載っていた4つのルートも、いずれも沢詰め、藪漕ぎ必須、或いは残雪期限定の難コースのようで、「一般向けの山ではない」という一文もどことなくそそられる。



これが崖山の地図。
  



こちらが崖山の航空写真だ。
  

画面左下の+(拡大)ボタンを押せば、崖山から南に延びる尾根(岩稜)に岩が露出している様子が確認できる。




ところで、「北海道の山と谷」に記載されているルートは、以下の4つである(P.146より引用)。

①芦別岳北尾根から惣芦別川本流の右股沢上流に降りて、岩稜の南端に取り付くコース。

②惣芦別川沿いの林道から、沢詰めして岩稜南端に取り付くコース。

③サキペンペツ川沿いの林道から「小さな本沢(おそらく白面沢のことかと思われる)」の源頭まで遡行し、尾根を乗り越えて惣芦別川左股沢の上流に降り、そこから遡上して岩稜の北端に取り付くコース。

④御茶々岳の北にある極楽平から尾根伝いに中天狗岳を経由して、崖山の山頂に至るコースで、本には「残雪期のみのルート」とある。


当時、地形図と照らし合わせながらどのルートがいいのか色々と想像してみたのだが、①のコースについては、一旦芦別岳の北尾根まで登ってからからのコースということで、体力的、時間的に相当きついコースになりそうだ。

これは③のサキペンペツ川沿いのコースにも言えて、こちらも距離が長くかなりきつそうなコースだと思われる。なんといっても一旦登った尾根からまた降りなければならないのがつらそうだ。

④のコースについても、極楽平まで登ってからが始まりとなる為、残雪期であっても相当きついコースだろう。


この4つのコースの中で、アプローチの距離などを考慮すると、②の惣芦別川沿いの林道から、沢詰めして岩稜南端に取り付くコースが、体力的・時間的に一番無難なルートに思われる。





などと妄想していたのだが、その後どうやらアプローチが改善されたらしく、「日帰り登山も可能になった」という情報も知ったので、「いつか行ってみるべ」と思っていた。

ところが!である。

そうは思いながらも、日々の暮らしに追われて中々行く機会も掴めないまま過ごしているうちに、いつの間にやら、なんと崖山一帯が高山植物保護の為に入山禁止となってしまったのだ!

その経緯については、空知森林管理署の崖山高山植物保護林における入山制限の取組みというページで詳しく解説されているのだが、それに拠ると、芦別-三笠間の国道開通以後、日帰り登山が可能となり登山者が急増して、現地の希少な高山植物が荒らされた(大量盗掘もあったらしい。不届き者めが!)ための措置のようだ。

現在では、応募者を募って抽選で当選した者だけが参加できる「モニター登山」という行事だけが、崖山に行ける唯一の方法らしい。

ということで、「いや~、入山禁止になる前に登ってみればよかったべさ」と今更後悔しても手遅れでした、という残念なお話である。





追記。

崖山についてネットで検索する際は、ただ「崖山」で検索しただけではなかなか関連する情報が出てこない。「崖山」+「きりぎしやま」と、ひらがな表記も一緒に入力して検索してやれば、崖山の登山記録のあるサイトなどがヒットするようだ。



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2017年4月3日月曜日

野花南のピラミッド山近くにある周堤墓群


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芦別市の野花南に、丸山(芦別市野花南のピラミッド?「丸山」参照)という奇妙な形をした山があることは以前にも書いた。

現地に行って山頂まで登ったりしてみたのだが、山自体が何かの遺跡かもしれないと考え、帰ってからも丸山について色々調べている内に、その丸山の近くに縄文時代の遺跡が存在することがわかった。

それが「野花南周堤墓群」という名称の遺跡で、文化庁の文化遺産オンラインや北海道の北の縄文(野花南周堤墓群(芦別市))のサイトに、遺跡に関する概略の記載がある。

で、それらのサイトにある簡単な説明だけでは満足できず、実際にこの目で確かめてみようと思い立ち、2004年の夏(だったと思う)に現地に行ってみることにしたのである。



芦別から国道38号を富良野方面に向かって進むと、野花南大橋手前の交差点に遺跡の看板があるので、そこを右折する。地理院の地形図に拠れば47線と思われる農道を、1Km余り南下してから十字路を左折して、根室本線の線路を渡る。

これが地図。

   

地図上の淡いオレンジ色のマークが「野花南周堤墓群」で、濃いオレンジマークが丸山である。

線路を渡って右手に曲がり、線路沿いに南下するのだが、畑の真横なのでこの道路が農家の土地なのか公道なのかよくわからない。ネットで調べた限りでは私有地と国有地が混在している遺跡らしいが、侵入の許可を取ろうにも周りに人っこ一人いない…。

仕方なくそのまま進んでいくと、左手の畑の端の方に周囲を柵で囲まれた「野花南周堤墓群」遺跡が見えてくる。

線路沿いから左折して、農道の行き止まりに車を停める。そこから斜めに伸びている進入路を徒歩で歩いて行くと、柵で囲まれた周堤墓群の入り口に「芦別市教育委員会」による説明書きの看板が立てられている。

この看板が立っている箇所が、どうやら「1号周堤墓」と呼ばれる場所らしい。遺跡自体は思ったよりも小規模で、直径(外径)はおよそ25m、周堤の高さは30cm程とかなり低く、周囲を囲む柵がなければ見つけられなかったかもしれない。周囲の柵のさらに外側には、7,8本の立ち木が周りを囲むように点在していた。

「1号周堤墓」の内側は、大きめの石が無造作に転がっているような感じで、見た感じでは配置に規則性は感じられない。この転がっている石というのが、どうやら昭和37年に復元配置されたものらしい。周堤墓の内径は15m程であり、千歳のキウス周堤墓群よりもかなり小さい。

その「1号周堤墓」のすぐ北側にも直径11m程の 「2号周堤墓」という遺跡もあるのだが、パッと見「ただのくぼ地」みたいにしか見えない。

「1号」、「2号」共に、「直接見られる日本一大きな縄文時代のお墓」と言われる「キウス周堤墓群のスケールには遠く及ばないのだが、周囲ののどかな風景と調和した雰囲気はなかなかいいと思う。見学中に根室本線の線路を列車が通ったのだが、空知川と線路に挟まれた遺跡というのも、いかにも鄙びた土地という感じがして、何やら自然に気持ちが和んだのを憶えている。


ところで、現地では写真を結構撮った筈なのだが、保存先をHDD(当時のPCは容量が40GBしかなかった)ではなくCD-Rにしており、一番安いメディアを買った所為かこれが裏目に出て、殆どのCD-Rが読み取り不能となってしまった…。1号、2号の両遺跡とも、かなりの枚数の写真を撮っていただけに本当に残念だった。


仕方ないので、代わりにGoogleの航空写真でも載せておこう。

   

地図と同様、淡い方のオレンジ色のマークが「野花南周堤墓群」」である。左下の倍率ボタンを操作して拡大すると、1号周堤墓の輪郭がはっきり見える。





という訳で、この場所では特に眩暈なども感じることはなく「野花南周堤墓群」遺跡の見学は終わり、帰りに野花南ダムに寄り道して、例の「丸山」を拝んでから家路に就いたのだった。


(続く)  (前回)



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2017年3月18日土曜日

神居古潭ストーンサークルを探すべ!


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深川市方面から国道12号を通って、旭川市に向かう途中の石狩川沿いに「神居古潭」という場所がある。旭川有数の景勝地らしいのだが、ここはまた「竪穴式住居跡」「ストーンサークル」などの、縄文時代の遺跡がある場所でもあるのだ。

最初にこの遺跡の存在を知ったきっかけは、ネットで「神居古潭」を検索していて出てきた北海道環境衛生部の北の縄文(神居古潭ストーンサークル遺跡(旭川市))というサイトを見たことからで、その中の「旭川市神居古潭ストーンサークル遺跡は、神居山中腹の標高213mの平坦面にあります」という記述を読んで、いつかは行ってみたいと思うようになった。

その後、神居古潭の遺跡についてネットでいろいろ調べていたら、上記のサイトよりもっと詳しい「ブナ林と古代史」というサイトの中の神居古潭ストーンサークル(神居古潭5遺跡)というページを見つけた。

そこに載っていた地図に拠ると、「旭川市神居古潭ストーンサークル遺跡」は、どうやら神居古潭トンネルのすぐ上辺りに位置しているらしいことがわかった。その地図(ページの中段にある地形図)に記してある遺跡記号で言えば、「53」という番号の箇所のようだ。

これでおよその位置も掴めたので、雪が無くなって地表が確認できる時期に、一度訪れてみるべと計画していた。





ということで2003年の6月のある日、「神居古潭ストーンサークル」に行ってみるべく、旭川に向けて出発したのである。


Googleの地図ではこの場所になる。

   

神居山から下る尾根上のオレンジ色のマークが、「神居古潭ストーンサークル」があると思われる場所である。



国道12号神居古潭トンネルの手前で「神居古潭」に向かう左側の道に折れ、駐車場に車を停める。

で、せっかくここまで来たのだからと、まずは「旧神居古潭駅」などを見学してみる。

旧神居古潭駅舎
ここは嘗て納内と伊納との間にあった路線上の駅で、現在はこの区間は別ルートに切り替えられ廃線となったので、駅舎だけが残っているようだ。

この駅舎、北野誠の「おまえら行くな!」で心霊スポットとして有名になってしまったが、昼間見る限りでは、何ら怪しい雰囲気を感じさせない、静かな環境にある建物である。





さて、肝心の目的であるストーンサークルの探索の話である。

地形図で確認すると、道道57号と国道12号の合流点近くに、「神居古潭ストーンサークル」があるとされる213.2m峰近辺に延びる歩道の起点があるのだが、さすがにそこまで戻るのは面倒なので、今回は神居古潭トンネルの上を藪漕ぎしてストーンサークルを目指すことにした。

車を通行の妨げにならない路肩に停めて、ほぼ南方向となる213.2m峰を目指して藪漕ぎして行くのだが、笹丈はそれ程高くないので、藪漕ぎ自体は比較的楽だった。ただ笹の葉っぱの裏側に大量のマダニがいるので、なるべくそれらに接触しないように登っていくのだが、どうしても服にダニが付いてしまう…。

時々立ち止まってダニを払い落しながら、漸くストーンサークルがあるとされる213.2m峰に続く尾根の上に出た。その213.2m峰の南東方向に目的の遺跡がある筈なのだが、南東に暫く歩いて見てもストーンサークルらしきものは見えない。パッと見、笹藪と灌木の所為で地面の状態がよくわからないのだ。

通り過ぎたかな?と思って逆方向に向けて尾根上を戻ってみたら、今度は213.2m峰頂上と思われる場所に出てしまった。

場所的には、今歩いてきた尾根上にあるのは間違いない筈だが、今回はどうしても見つけることが出来なかった…。

前述の道の環境衛生部のサイト、北の縄文(神居古潭ストーンサークル遺跡(旭川市))に、「1990年の試掘調査で、遺跡の主要部分の表土を剥いで配石の状態を確認して全容がわかりました」という記述があり、大々的に掘り返したという訳ではないらしいので、どうやら十数年経過するうちに、自然の状態に戻ってしまったということなのかもしれない。それともただ単に眼が悪い(裸眼視力は両方とも0.1以下)だけの話なのだろうか?…



遺跡を確認できなかったので当然写真も撮っておらず、仕方がないので代わりにGoogleの航空写真でも載せておくことにする。

   

オレンジ色のマークが「神居古潭ストーンサークル」があると思われる場所なのだが、拡大して見ても何が何だかさっぱりわからんな…。





という訳で、一応自分自身の足で「神居古潭ストーンサークル」遺跡の付近を歩いたことだけは間違いないようなので、取り敢えずの目的は遂げたと自分に言い聞かせ、車を目指してダニだらけの笹薮に再び突入して行ったのだった。


(続く)  (前回)



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2017年2月26日日曜日

百松沢山から見た神居岳の思い出


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今から遡ること数十年前の高校時代の春、札幌近郊の百松沢山に登ったことがある。

当時、高校の山岳部顧問をしていた数学教師が、授業中に「五月の連休に山岳部で百松沢山に登るから、興味のある奴は来い。雪の上に踏み跡を付けとくから。」と勧誘したから行ってみたのだが、どうやら呼びかけに応じて参加した一般生徒は自分一人だけのようだった。

特に待ち合わせして登ろう、という取り決めもなかったので、西野左股の市営バス福井停留所に着いたのは午前8時頃だったと思う。


これが地図。

  


参考までに、Googleの航空写真も貼っておこう。

  




この百松沢山という山は、登山道というものが無く、無雪期に登れば藪漕ぎ必至の山なのだが、4月~5月の連休時は残雪が固く締まっていて、つぼ足で難なく登れる絶好の登山期間らしい。

最初は源八沢沿いに付いている、先行した山岳部の踏み跡を辿り、地形図の633m地点の北側を巻いて、残雪の急斜面を踏み後を辿りながらつぼ足で淡々と登って行くと、やがて広めの台地状となっている尾根に到達した。どうやらここが山屋さん達の間で「シルバーザッテル」と呼ばれている場所らしい。

ここからは尾根筋に進むだけなのだが、いくらこの時期はつぼ足だけで登れるとはいえ、ところどころで落とし穴の様な雪の深みに足を取られ、結構しんどい思いをしたのを憶えている。

尾根筋を進んで行くと、頂上手前では尾根が広い斜面上に変わり、そこを登り切れば、ようやく百松沢山の山頂だ。

山頂で休んでいたら、先行していた山岳部の連中が「百松沢山南峰」から戻って来るのに遭遇。顧問のA先生に「おう、来てたか!お前も物好きだなぁ」と冷やかされながらも、「南峰からの眺めはいいぞ」との情報も貰って、「南峰」を目指すことにした。

ところでこの「百松沢山南峰」、なんと百松沢山の山頂より標高が高いのだ!

百松沢山の標高が1,037.8mで、南峰の標高が1,043mだから、「南峰」などと呼ばずに、こちらを百松沢山山頂にすればいいのに、と思った記憶がある。


話を戻して、南峰への登山の続きである。

南峰に向かうには、尾根筋を一旦下って、再度登らなければならない。百松沢山本峰までの登りで、結構体力を消耗してしまっていたので、かなりのんびり進んだのを憶えているが、最後の急な斜面を登り切って、漸く南峰頂上に到達したのだった。


情報どおり頂上からの眺めは素晴らしく、右手には見ようによっては頂上部分が削られた富士山に見えなくもない形の「烏帽子岳」、そして左手の眼前には荒々しく崖が露出した「神居岳」が拝める。

「烏帽子岳」「百松沢山」同様登山道が無い山なので、行くならその時がチャンスだったのだが、時刻も昼を過ぎてしまい体力的にも無理だろう、ということで、「烏帽子岳」行きは諦め、南峰の上で昼飯を食ってから下山することにしたのである。


で、その時に昼飯を食いながら見た目前の「神居岳」の印象がかなり強烈に印象に残っているのだが、高校生当時はカメラなど持っていなかったので、残念ながら写真は無い。

代わりに、記憶をたどりながら「南峰から見た神居岳」の絵をペイントを使って描いたので、そちらを載せておく。

百松沢山南峰から見た神居岳


百松沢山南峰から見た烏帽子岳

……、さすがに自分でもコレは酷いと思うので、「札幌近郊」、「神居岳」、「烏帽子岳」で検索して、まともな写真を拝んで欲しい。




(続く)  (前回)



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2017年2月3日金曜日

素人の的外れな妄想~「え?古墳じゃないのコレ?」 静川遺跡


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今から10年程前の夏頃だっただろうか、ドライブがてら苫小牧市の植苗辺りを車で走っている内に道道129号に入り込み、工業団地の端っこを走っていたら国道235号に突き当たった。その時は、このまま日高方面にでも足を延ばしてみるかと思っていたので、まずは鵡川町に向かう為、国道を左折することにした。

で、静川橋を渡って少し走った辺りだったと思うが、左手に「静川遺跡」の看板を見つけたのだ。

それまで、「静川遺跡」という遺跡のことはj全く知らなかったのだが、知らない場所なら一度は拝んでおきたいという性質なので、その看板のある道に左折して入ってみることにした。


ここで現地の地図を載せておく。
  


林内の砂利道を進んで行き、右から流れ込む安平川の支流沿いの道に右折する。そこから、草深くて狭い砂利道を更に少し進むと、道の終わりが「静川遺跡」の駐車場になっていた。


現地に設置してある看板に拠れば、遺跡自体は「東地区」と「西地区」と呼ばれる二つの大きな台地の上にあり、駐車場は「西地区」台地の北端に位置している。

看板に書いてある説明では、この遺跡は約4000年前の縄文中期の遺跡らしく、「西地区」には33箇所のたて穴式住居跡があり、「東地区」の方には、台地上の北側にある2箇所の建造物跡を囲む様に「環濠」が設置されていたようなのだが、現在はその「環濠」は埋め戻されているようだ。

この「環濠」というのが結構大掛かりなもので、深さ1~1.8m、幅2~3mの溝が、北端の住居跡を周囲138.5mに渡って囲っていたらしい。


で、更に看板をよく見ると、「住居跡」、「墳墓」、「環濠」などを示す記号に混じって、「落とし穴」という水色の記号もあったのだ。看板の図ではこの水色の落とし穴記号が、「西地区」、「東地区」を問わず至る所に点在している…。しかし、これが本当に「落とし穴」だとしたら、まさか遊び半分で作った訳でもないだろうから、外敵か羆に対しての備えとして作ったのだろうか?


看板をじっくり拝んでから「西地区」の台地に登ってみたのだが、まずその大きさに圧倒される。隣に連なる「東地区」の台地もそうなのだが、思っていた以上に広い。

参考までに、「静川遺跡」のGoogleの航空写真を載せておくが、その大きさを感じられるだろうか。

  

写真左手が「西地区」の台地で、右側が「東地区」となる。上側(北側)中央のオレンジのマークは、「環濠」跡が発見された台地である。


「西地区」の台地の南端から「東地区」台地へ渡り、「環濠」があったとされる「東地区」台地の北端まで歩いてみたのだが、どうやら気になっていた「落とし穴」も、「環濠」同様埋め戻されてしまったようで、穴を拝むことは出来なかった。

その後、「東地区」の南側など、一通り台地を歩き回ったのだが、この時はカメラを持っていくのを忘れた為、現地の写真を撮ることが出来なかったのが残念だった。

で、両方の台地の上を行ったり来たりしてフラフラしている内に結構な時間が経ったので、日高方面に行くのは諦めて、そのまま帰路に就くことにしたのである。



ところで、ネットで検索してみた結果、この「静川遺跡」について、一番充実した内容が記されていると思われるブナ林と古代史というサイトを見つけた。

「静川遺跡」に関するページに行くには、トップページにある古代史への入口というリンクを踏むと出てくるページの中のリンク静川遺跡をクリックする。そこで出てきたページの左側メニューから、「A地区(東地区)」や「B地区(西地区)」の遺跡について写真入りの詳細な説明ページに飛ぶことができ、そこに記載されている内容が非常に興味深い。(※尚、上記サイトについては検索すればトップで出てくるので、敢えてリンクは貼っていない)


そのサイトの説明の中に、「A地区(東地区)」にある「環濠」で囲まれた2箇所の建造物跡は、日常的な空間とは異にした「聖域」だったのではないか、という記述があるのだが、それを読んだ時に何故か得心させられるものがあった。

「東地区」の「環濠」で囲まれていたとされる台地の上を歩いていた時、現地の看板の「この環濠が作られた目的などについては現在解っておりません~」という説明書きに影響された所為か、ここは何か特別な遺構だったのではないか?という感じがして、その時に何故か「古墳」という言葉が連想されたからである。

但し、もし「古墳」なら縄文時代とは時代も異なる(古墳時代は3世紀以降)し、石狩管内で発見された所謂「末期古墳」と呼ばれるものとも形状は違っている様だし、そもそも「古代遺跡」と言えば「古墳」くらいしか思い浮かばない、単純な頭の石器人の根も葉もない妄想なんだけど…。


勿論、公式には発掘調査の末に「縄文中期の住居跡と環濠の遺跡」という説が確立されている訳で、古墳ではありえないのだが、それにしても、もしかしてここは縄文時代の遺跡とは別の「何か」だったのでは?と妄想するだけでも、何故かワクワクして来るではないか。



ということで、ここまで「素人の全く的外れな妄想」を書き散らしてみたのだけれど、「環濠」と「聖域」のある「東地区」の台地をもう少し深くほじくったら、また何かすごい物が出てきたりして…。


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2017年1月22日日曜日

キウス周堤墓群


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千歳市の郊外に、縄文人の手に拠るとされている大規模な遺跡があることを御存知だろうか。

「キウス周堤墓群」と呼ばれるその遺跡は、国道337号と道東自動車道が交差する千歳東ICのすぐ傍に、国道に真っ二つに分断された形で存在している。

現地の看板の説明書きに拠ると、およそ3000年前の縄文時代後期に造られた墓で、円形に掘った土を周囲に堤状に積み上げ、その内側の墓地に当たる部分には石柱が立てられることもあり、その形状から「周堤墓群(しゅうていぼぐん)」若しくは「環状土籬(かんじょうどり)」と呼ばれているらしい。

域内には全部で8基の墓があり、一番大きなものでは直径が75m、高さ5m、深さ2mとのことで、「直接見ることができる日本一大きな縄文時代のお墓」ということだ。



石器人がこの遺跡のことを知ったのはそれ程古くなく、確か西暦2000年頃のことだったと記憶している。

どんな場所かと興味を惹かれ、何回か現地まで行って写真も撮ったのだが、CD-Rに保存しておいた写真が経年劣化の所為かほぼ読み取り不能となり、手元には一枚の写真も残っていなかった。

葉っぱが落ちた11月頃に撮ったので、結構全貌を見渡せる写真もあったから、実に惜しいことをしたなと思っていたのだが、「それなら今丁度葉っぱが落ちて見通しもいい筈だから、もう一回行って写真を撮ればいいべや」と気が付き、又もや現地を訪れることになったのだ。





まずは「キウス周堤墓群」の地図。
   
オレンジ色のマークが「キウス周堤墓群」だ。



参考までに、これが千歳市にある他の主な遺跡の航空写真。
   

千歳市内の他の遺跡もマーク(水色)で示してある。





という訳で、秋も深まった11月初旬のある日「キウス周堤墓群」を訪れるべく、千歳市に向かって出発した。

場所自体は国道337号を千歳に向かって進み、千歳東ICの手前迄来れば、進行方向に向かって左側の雑木林に看板と駐車場があるのですぐわかる。

これが駐車場の入口の写真。

キウス周堤墓群駐車場


少し離れてこんな看板もある。

説明書きの看板
冒頭に書いた「キウス周堤墓群」についての説明は、この看板からの引用である。


これが看板の拡大図


赤字の番号は撮影位置で、矢印記号は撮影方向。




拡大図中の№1地点。まずは駐車場から遺跡へ向かう。

拡大図№1地点
木立の先に2号周堤墓が見える。



拡大図中の№2地点。2号周堤墓の堤の上から国道方向を見る。

真ん中から真っ二つ
ドーナツが真ん中から国道によってスッパリ分断されているのがわかる。なかなか無神経な工事だ。道路を通した時はわからなかったのだろうか、それともわかっていても遺跡の意義など軽視された時代だったのだろうか。



拡大図中の№3地点。堤の形をオレンジの線で描いてみた。

堤の形状はこんな感じ


拡大図中の№4地点。上の№3の先の堤の形状。

同じく堤の形状の画像


拡大図中の№5地点。3号周堤墓を望む。

オレンジの線が3号のドーナツの穴部分



拡大図中の№6地点。3号周堤墓の内側。
   
3号の内側





一応他の周堤墓の写真も撮ったのだが、全体像が掴めそうなのは上に載せた写真くらいしか無かったので、後は省略することにした。



撮影技術が未熟な為、現場の様子はなかなか伝わり難いとは思うが、それにしても現地で見る限り、平面的な広がりが巨大な遺跡であることが実感できる。

重機を使っても結構な作業量になりそうなのに、それをすべて人力でここまでの大きさのものを造り上げるというのは、まさに気が遠くなるような作業だと思われる。





ところで、ネットで「キウス周堤墓群」について色々と調べてみたのだが、その中でも「歴史倶楽部 - 邪馬台国大研究」というHPに掲載されている記事が面白かった。尚、検索すればトップで出てくるので、このHPに敢えてリンクは貼っていない。

そのHPのトップページの目次にある№180「北海道の遺跡を訪ねて」のページからリンクされている「キウス周堤墓」に関する記事の中に、「周堤墓の内側で遺体の一部の遺存が認められている」という記述があったので、「墓」であることは間違いないようなのだが、それにしてもここまで巨大になものを造る理由が、信心の足りない石器人としては理解に苦しむ点だ。



予備知識の無い人間に「UFOの発着跡」だと説明しても、もしかしたら信じる人もいるかも知れないと思わせる程、スケールが大きく不思議な遺跡である。


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