2017年2月26日日曜日

百松沢山から見た神居岳の思い出


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今から遡ること数十年前の高校時代の春、札幌近郊の百松沢山に登ったことがある。

当時、高校の山岳部顧問をしていた数学教師が、授業中に「五月の連休に山岳部で百松沢山に登るから、興味のある奴は来い。雪の上に踏み跡を付けとくから。」と勧誘したから行ってみたのだが、どうやら呼びかけに応じて参加した一般生徒は自分一人だけのようだった。

特に待ち合わせして登ろう、という取り決めもなかったので、西野左股の市営バス福井停留所に着いたのは午前8時頃だったと思う。


これが地図。

  


参考までに、Googleの航空写真も貼っておこう。

  




この百松沢山という山は、登山道というものが無く、無雪期に登れば藪漕ぎ必至の山なのだが、4月~5月の連休時は残雪が固く締まっていて、つぼ足で難なく登れる絶好の登山期間らしい。

最初は源八沢沿いに付いている、先行した山岳部の踏み跡を辿り、地形図の633m地点の北側を巻いて、残雪の急斜面を踏み後を辿りながらつぼ足で淡々と登って行くと、やがて広めの台地状となっている尾根に到達した。どうやらここが山屋さん達の間で「シルバーザッテル」と呼ばれている場所らしい。

ここからは尾根筋に進むだけなのだが、いくらこの時期はつぼ足だけで登れるとはいえ、ところどころで落とし穴の様な雪の深みに足を取られ、結構しんどい思いをしたのを憶えている。

尾根筋を進んで行くと、頂上手前では尾根が広い斜面上に変わり、そこを登り切れば、ようやく百松沢山の山頂だ。

山頂で休んでいたら、先行していた山岳部の連中が「百松沢山南峰」から戻って来るのに遭遇。顧問のA先生に「おう、来てたか!お前も物好きだなぁ」と冷やかされながらも、「南峰からの眺めはいいぞ」との情報も貰って、「南峰」を目指すことにした。

ところでこの「百松沢山南峰」、なんと百松沢山の山頂より標高が高いのだ!

百松沢山の標高が1,037.8mで、南峰の標高が1,043mだから、「南峰」などと呼ばずに、こちらを百松沢山山頂にすればいいのに、と思った記憶がある。


話を戻して、南峰への登山の続きである。

南峰に向かうには、尾根筋を一旦下って、再度登らなければならない。百松沢山本峰までの登りで、結構体力を消耗してしまっていたので、かなりのんびり進んだのを憶えているが、最後の急な斜面を登り切って、漸く南峰頂上に到達したのだった。


情報どおり頂上からの眺めは素晴らしく、右手には見ようによっては頂上部分が削られた富士山に見えなくもない形の「烏帽子岳」、そして左手の眼前には荒々しく崖が露出した「神居岳」が拝める。

「烏帽子岳」「百松沢山」同様登山道が無い山なので、行くならその時がチャンスだったのだが、時刻も昼を過ぎてしまい体力的にも無理だろう、ということで、「烏帽子岳」行きは諦め、南峰の上で昼飯を食ってから下山することにしたのである。


で、その時に昼飯を食いながら見た目前の「神居岳」の印象がかなり強烈に印象に残っているのだが、高校生当時はカメラなど持っていなかったので、残念ながら写真は無い。

代わりに、記憶をたどりながら「南峰から見た神居岳」の絵をペイントを使って描いたので、そちらを載せておく。

百松沢山南峰から見た神居岳


百松沢山南峰から見た烏帽子岳

……、さすがに自分でもコレは酷いと思うので、「札幌近郊」、「神居岳」、「烏帽子岳」で検索して、まともな写真を拝んで欲しい。




(続く)  (前回)



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2017年2月3日金曜日

素人の的外れな妄想~「え?古墳じゃないのコレ?」 静川遺跡


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今から10年程前の夏頃だっただろうか、ドライブがてら苫小牧市の植苗辺りを車で走っている内に道道129号に入り込み、工業団地の端っこを走っていたら国道235号に突き当たった。その時は、このまま日高方面にでも足を延ばしてみるかと思っていたので、まずは鵡川町に向かう為、国道を左折することにした。

で、静川橋を渡って少し走った辺りだったと思うが、左手に「静川遺跡」の看板を見つけたのだ。

それまで、「静川遺跡」という遺跡のことはj全く知らなかったのだが、知らない場所なら一度は拝んでおきたいという性質なので、その看板のある道に左折して入ってみることにした。


ここで現地の地図を載せておく。
  


林内の砂利道を進んで行き、右から流れ込む安平川の支流沿いの道に右折する。そこから、草深くて狭い砂利道を更に少し進むと、道の終わりが「静川遺跡」の駐車場になっていた。


現地に設置してある看板に拠れば、遺跡自体は「東地区」と「西地区」と呼ばれる二つの大きな台地の上にあり、駐車場は「西地区」台地の北端に位置している。

看板に書いてある説明では、この遺跡は約4000年前の縄文中期の遺跡らしく、「西地区」には33箇所のたて穴式住居跡があり、「東地区」の方には、台地上の北側にある2箇所の建造物跡を囲む様に「環濠」が設置されていたようなのだが、現在はその「環濠」は埋め戻されているようだ。

この「環濠」というのが結構大掛かりなもので、深さ1~1.8m、幅2~3mの溝が、北端の住居跡を周囲138.5mに渡って囲っていたらしい。


で、更に看板をよく見ると、「住居跡」、「墳墓」、「環濠」などを示す記号に混じって、「落とし穴」という水色の記号もあったのだ。看板の図ではこの水色の落とし穴記号が、「西地区」、「東地区」を問わず至る所に点在している…。しかし、これが本当に「落とし穴」だとしたら、まさか遊び半分で作った訳でもないだろうから、外敵か羆に対しての備えとして作ったのだろうか?


看板をじっくり拝んでから「西地区」の台地に登ってみたのだが、まずその大きさに圧倒される。隣に連なる「東地区」の台地もそうなのだが、思っていた以上に広い。

参考までに、「静川遺跡」のGoogleの航空写真を載せておくが、その大きさを感じられるだろうか。

  

写真左手が「西地区」の台地で、右側が「東地区」となる。上側(北側)中央のオレンジのマークは、「環濠」跡が発見された台地である。


「西地区」の台地の南端から「東地区」台地へ渡り、「環濠」があったとされる「東地区」台地の北端まで歩いてみたのだが、どうやら気になっていた「落とし穴」も、「環濠」同様埋め戻されてしまったようで、穴を拝むことは出来なかった。

その後、「東地区」の南側など、一通り台地を歩き回ったのだが、この時はカメラを持っていくのを忘れた為、現地の写真を撮ることが出来なかったのが残念だった。

で、両方の台地の上を行ったり来たりしてフラフラしている内に結構な時間が経ったので、日高方面に行くのは諦めて、そのまま帰路に就くことにしたのである。



ところで、ネットで検索してみた結果、この「静川遺跡」について、一番充実した内容が記されていると思われるブナ林と古代史というサイトを見つけた。

「静川遺跡」に関するページに行くには、トップページにある古代史への入口というリンクを踏むと出てくるページの中のリンク静川遺跡をクリックする。そこで出てきたページの左側メニューから、「A地区(東地区)」や「B地区(西地区)」の遺跡について写真入りの詳細な説明ページに飛ぶことができ、そこに記載されている内容が非常に興味深い。(※尚、上記サイトについては検索すればトップで出てくるので、敢えてリンクは貼っていない)


そのサイトの説明の中に、「A地区(東地区)」にある「環濠」で囲まれた2箇所の建造物跡は、日常的な空間とは異にした「聖域」だったのではないか、という記述があるのだが、それを読んだ時に何故か得心させられるものがあった。

「東地区」の「環濠」で囲まれていたとされる台地の上を歩いていた時、現地の看板の「この環濠が作られた目的などについては現在解っておりません~」という説明書きに影響された所為か、ここは何か特別な遺構だったのではないか?という感じがして、その時に何故か「古墳」という言葉が連想されたからである。

但し、もし「古墳」なら縄文時代とは時代も異なる(古墳時代は3世紀以降)し、石狩管内で発見された所謂「末期古墳」と呼ばれるものとも形状は違っている様だし、そもそも「古代遺跡」と言えば「古墳」くらいしか思い浮かばない、単純な頭の石器人の根も葉もない妄想なんだけど…。


勿論、公式には発掘調査の末に「縄文中期の住居跡と環濠の遺跡」という説が確立されている訳で、古墳ではありえないのだが、それにしても、もしかしてここは縄文時代の遺跡とは別の「何か」だったのでは?と妄想するだけでも、何故かワクワクして来るではないか。



ということで、ここまで「素人の全く的外れな妄想」を書き散らしてみたのだけれど、「環濠」と「聖域」のある「東地区」の台地をもう少し深くほじくったら、また何かすごい物が出てきたりして…。


(続く)  (前回)



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